ソドムとゴモラ

第6週 第7日(日)

聖書にあるソドムとゴモラの物語は、創成期の18章と19章に出てくる。

ソドムとゴモラヨルダン川流域にあった街である。

このふたつの町の住民は罪を犯していたので、神は両町を滅ぼしてしまおうと思った。

それを知ったアブラハムは、正しいものを悪いものと一緒に滅ぼすのは良くないと異を唱え、神は、正しいものが10人いたら、町を滅ぼすのはやめようと約束をした。

そして、実態を調べるため天使たちを派遣した。

天使たちは、町につくとアブラハムの甥ロトとであった。

ロトは天使たちを自宅に招き、食事を出してもてなした。

やがて、ソドムの住民たちがロトの家に押しかけ、「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。個々へ連れてこい。なぶりものにしてやるから」(創世記19章 5節)とわめきたてた。

それに対してロトは、まだ嫁がせていない自分の娘二人をソドムの男たちに差し出すで勘弁してほしいと言ったが、町のものは納得しなかった。

この時点で天使たちは、救いようが無いと判断し、ロトに、家族を連れてソドムから逃げろと言った。

さらに、逃げる途中に振り返ってはならないと告げた。

ロトは近くの街まで逃げることができたが、彼の妻は、ソドムとゴモラが滅ぼされている最中に振り向いたので、塩の柱になった。

ソドムとゴモラの人々が、実際にどのような罪を犯していたのかは、はっきりしない。

昔からユダヤ教では、住民が犯したのは他人をもてなさない罪だと考えられている。

それに対してキリスト教保守派は、ソドムの罪は全く違った風に解釈している。

ソドムの住民は天使たちを「なぶりものにする」といっているが、この言葉を一部のキリスト教徒たちは、性行為の婉曲表現だと考えている。

この見方に立てば、ソドムの男たちは同性愛者であり、神は彼らの性的指向を罰したことになる。


聖書の物語はフィクションだと思っていたが、ソドムとゴモラの町は実在したのではないかという歴史学者もいるんだとか。

神が町を滅ぼした部分に関しては、何かのこじつけであると思うが、聖書がなにかの教訓として役割を果たすことも少し感じ取れた。

人をもてなすことを善とする考え方は、自分も賛成だし、そういう世界になればいいと思う。

そういった道徳的なものを普及する目的に宗教があるとするのであれば、その意義に少し同意できるかも知れない。